連載

RPべるぎーの胸の内:障害者と恋愛(8)

「障害者と恋愛」シリーズは、書き始めた当初(約5ヶ月前)は2~3回で終わる予定のシリーズでしたが、今回で8回目の記事となります。今回は、今一度「障害者と恋愛」について私なりに考えてみたいと思います。

求める「覚悟」

「障害者と恋愛」シリーズを読んでくださっているみなさんは、すでにご存知かと思いますが、私はこのシリーズを書き始めたころから、「障害者と恋愛・結婚するにあたって、障害者に対してする覚悟って何だろう?」と疑問に思ってきました。なぜ恋愛・結婚相手が障害者だと、「一生支えていかなければならない」という責任のようなものを健常者側が強く感じたりしてしまうのか。一般的には恋愛の先には結婚があると考えられていますし、「障害によって起こり得る問題を考慮して、それを乗り越えたり耐えたりする覚悟が結婚前にはあらかじめ必要である」という意見もあると思います。そういう考えも大切だと思いますし、理解もできます。疑問を持っている私自身も、何の覚悟もなしに結婚できるとは思っていません。

私は現在独身ですが、将来結婚する(と仮定して、その)結婚相手に対して「障害者である自分を一生養って介護して看取る覚悟をしてほしい」と願っていたり、それを相手に求めたいわけではありません。私以外にも、そういう覚悟を恋愛・結婚相手に求める障害者は少ないのではないかと思っています。少なくとも私が望む覚悟は、「一緒にお互いを支え合う覚悟」です。そういう覚悟を持った方と一緒に支え合って生きていきたいですし、そう思える方と今後結婚することができたらいいなと思います。ここで少し疑問に思われた方もいらっしゃるかもしれませんが、「覚悟」というものに対して疑問を抱いている私も、ちゃっかり恋愛・結婚に覚悟を求めています……。しかし、私が疑問に思うのは「どんな覚悟をするのか」ということです。そして、私が求める覚悟は、健常者同士の恋愛・結婚で求められてもおかしくはない覚悟だと思いませんか?

健常者と障害者との恋愛

健常者と障害者の恋愛・結婚も、健常者同士の恋愛・結婚と変わらないくらい、もっとカジュアルで気軽なものになったら良いのにと、健常者と障害者との恋愛もの(映画やドラマ、小説など)に触れるたびに思ってきました。もしかしたら、そう思うのは私の恋愛に対するコンプレックスが原因だったり、ただ私が考えすぎているだけなのかもしれません。しかし、同時にこうも思うのです。「私が今まで『障害者と恋愛』シリーズで書いてきたように意見できるのは、私が視覚障害者だからなのかもしれない」と。死に至る病気や妊娠・出産にかかわる病気になったとき、病気になった人から恋人に別れを告げたりするエピソードは、フィクションでもノンフィクションでも多い展開かと思います。なんだかんだ言っても、「もし死に至る病だったら?」「もし子どもを授かれない病だったら?」「それでも一緒に支え合う覚悟をしてほしいと言える?」「(カジュアルに)結婚しようと言える?」と問われたら、私は恋人との別れを選択するかもしれません。そこまでの結果に至らないまでも、今まで意見してきたようなことを胸を張って即答できる自信はありません。しかし、もし危惧している状況に自分が陥ったときでも、忘れずにいたいと思う言葉があります。それは、「誰にでも幸せになる権利はある」という言葉です。この言葉は、以前掲載した記事にも書きましたが、私が恋愛のことで悩んでいたときにフォロワーさんからいただいた言葉です。この言葉は、健常者も障害者も関係なく言えることだと思います。どんな障害があっても、家庭環境に恵まれなくても幸せになる権利がある。きれいごとに聞こえてしまうときもありますが、そう思えば少しは前が向けそうな気がするのです。

ライター:べるぎー