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RPべるぎーの胸の内:視覚障害者として過ごした高校生活(2) カミングアウトはどこまで必要?

中学校生活と違って理解者が増えた、私の高校生活。
前回に引き続き、「高校生活」と「カミングアウト」について書かせていただきます。

この記事は2019年11月14日掲載の視覚障害者として過ごした高校生活(1) 初めてのカミングアウトのつづきです。まだお読みになっていない方は、先に上記の記事からお読みください。

予期せぬ事故

私の高校では、体育祭の種目の中に、各クラス対抗で応援団が演技を披露する時間がありました。高校3年生のとき、当時の応援団長の口車にうまく乗せられ、私は応援団に入ることになりました。

普段の応援団の練習は教室や廊下でおこなっていましたが、その日は校庭で練習できる貴重な日でした。実際の会場で練習できることもあり、ストップなしで全部通してみたり、全体の仕上がりを確認したりしていました。

私たちの応援団は、みんなで一斉に入場門から「ワー!」と叫んで走りながら入場し、自分の立ち位置へ向かうところから演技が始まる構成でした。その構成を活かすためには、それぞれが自分の最初の立ち位置を確認・調整することが不可欠です。各応援団で演技時間に制限もあったため、なるべくスムーズに、なるべく自分の立ち位置まで一直線に向かうことが求められ、繰り返しその練習もしていました。事故はその練習中に起きたのです。

入場シーンを何度か練習していくうちに、自分の進むルートのようなものができました。スタートの合図で自分の立ち位置に向かって走っていた私の視界が急に真っ暗になり、その直後に顔面に強い衝撃を感じました。何かにぶつかって頭がうしろに弾むくらいの衝撃を受けたことだけは分かりました。

「ワー!」と叫んでいたため、ぶつかった衝撃で口の中を噛み流血。噛んだ下唇は腫れ、鼻を強打したため鼻血も涙も出ました。

何が起きたのかというと、私は人の背中にぶつかってしまったのでした。私が自分の立ち位置に集中して走っていたところ、相手は「自分のことを認識して避けてくれるだろう」と思い、私の前を横切ろうとしたそうです。私はすぐに相手に謝り、相手にも周囲の人たちにも視野に入っていなかったことを説明しましたが、ぶつかった相手には理解されませんでした。

周りの目もあったのかもしれません。ケガをしたのは女で、無傷なのは男となると、事実はどうであれ人の目に映る光景は先入観によって少し変わる場合もあります。相手は「俺は悪くない」と周囲に、あるいは自分に言い聞かせるように何度も言っていました。

口の中の傷は治るのに1ヶ月以上かかりましたが、体育祭にも参加でき、応援団としても演技をやりきることができました。中学生のときと同様に理解されず悔しかったですが、相手が背中に衝撃を受けただけで、無傷だったことが私にとっては救いでした。
私はこの事故で、視覚障害者も加害者になる可能性が十分にあることを身をもって実感しました。

カミングアウトの難しさ

病気を宣告されてから10年以上経ち、今ではカミングアウトも苦ではありません。しかし、宣告される瞬間までは健常者として過ごしていたことや、思春期であったこともあり、なんとなく「普通に見られたい」という気持ちが、当時の私の中にはあったと思います。そんな気持ちと人に頼りづらい性格とが合わさり、困ったことがあっても自分でなんとかしようと頑張っていたため、私が視覚障害者であることは限られた人しか知りません。したがって、今も私が視覚障害者であることを知らない同級生が大多数です。

今では、学年全体にカミングアウトしたほうが良かったのかなと思っています。それが視覚障害者への理解につながったかもしれないからです。あのときの私に勇気があれば…。

障害者にとって、カミングアウトは勇気のいることだと思います。自らカミングアウトするためには、「自分が障害者である」ということに向き合い、認めなければなりません。カミングアウトしたことによって離れていく人がいるかもしれないと思うと、余計に言い出せなかったり。私も気を遣わせるのが申し訳なかったり、暗い雰囲気になるのが怖かったりして、言い出せないことも多かったです。

しかし、私の経験から言わせてもらえるならば、カミングアウトは早いに越したことはありません。無理をする必要はないと思いますが、カミングアウトすることによって困ったことが起きても早めに対応してもらえたり、相手も心の準備ができたりするからです。

そして何よりも、カミングアウトして誰かと共有することで、少しは生きやすくなると思います。お願いしたり頼ったりすることは、悪いことでも恥ずかしいことでもありません。
私も、自分自身にそう言い聞かせていきたいです。

ライター:べるぎー